民数記13:1−2,17−33/Ⅱコリント4:7−18/ヨハネ20:19−31/詩編145:1−13
「イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」」(ヨハネ20:29)
これまでも何回かお話しした通り、新約聖書に四つある福音書で最も古いのがマルコ福音書、最も新しいのがヨハネ福音書です。この場合の「新しい」と「古い」とは、わたしたちが今手にしているようなかたちで出来上がった年代が古いか新しいかということです。おおよそマルコ福音書は紀元60年頃、ヨハネ福音書は1世紀の終わり頃ではないかと考えられています。でも、それは形になったことがそうであるという推定なのであって、そこで語られていることが成立年代の通りマルコが最も古くヨハネが最も新しいということにはなりません。それぞれが書かれるための材料は、書かれた年とは関係なく新しいものも古いものもあるわけです。だから、マルコに書かれていることがいつどのような場合でも一番古く、従って信憑性がある、ということにはなりません。ヨハネ福音書が取り上げている材料、それがいつから伝承されたものであるかによっては、四つの中で最も古い、成立直後のキリスト教の様子を最も良く伝えている、ということだってあり得るわけです。
ところで福音書は様々な目的で書かれていますが、そのどれもイエスの死と復活がとても重要なテーマであったことは良くわかります。キリスト教はイエスの復活から始まったと言ってもよいのです。そしてイエスの死と復活をめぐる一連の出来事は、福音書においても決して粛々と信仰深い洞察のもとで書かれているわけではないことがわかります。つまり、登場人物の中に不信仰とか戸惑いとか畏れとか、およそ「敬虔な」クリスチャンにはあってはならないと思えるようなことも、かなり正直に、詳しく書かれているのです。
イースターには必ず、空っぽの墓のことが語られます。わたしたちはイエスが復活したと知っているのだから、墓が空っぽであることは何の不思議もありません。でも、本当にイエスが十字架で死んだことを見た人たちには、それはやはり戸惑いと畏れを生む出来事、あるいは何か裏があるとしか思えない出来事だったはずです。ヨハネ福音書がこの事を取り上げている箇所を見ると、そこにはマルコよりもっと古い伝承が取り上げられていることがわかります。
先週読んだ箇所、ヨハネ福音書20章に「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」(2)というマリアのことばがあります。口語訳聖書はもっとハッキリ書いています。「だれかが、主を墓から取り去りました。どこへ置いたのか、わかりません。」(同)。マリアが「誰かが」という時、その逆の立場から情報を伝えている福音書がマタイです。「『弟子たちが夜中にやって来て、我々の寝ている間に死体を盗んで行った』と言いなさい。」(マタイ28:13)。これは同じひとつのことを全く反対側から証言している面白い箇所です。イエスの関係者はユダヤ教徒がイエスの死体を侮辱したと考えており、ユダヤ教徒側はイエスの弟子たちが自分たちに有利になるように遺体を隠したと思っているということです。そして、つまり両者にとって「遺体が消える」ということがとてつもなく大きな困惑だったのです。
そのように考えてみると、イエスが十字架で殺されたというその事実は弟子たち、特に彼らが見捨てたゆえに十字架で殺されてしまったイエスの弟子たち、そしてイエスと特別に深い関わりを保ち続けてきた女性たちにとって、それがどれだけ衝撃であったかはわかりますが、それと同等に、あるいはそれ以上に衝撃だった出来事が、イエスの遺体が消えるということだったと分かります。悲しみのダブルパンチ、衝撃のダブルパンチです。そしてここがとてもとてもドラマティックなのですが、衝撃のダブルパンチに打ちひしがれた者だけが──弟子たち、そして女性たちこそが──イエスの顕現に引き合わされるのです。その瞬間、あの衝撃のすべてが分かった。もちろん瞬間的にとか直感的にとかばかりではなく、何度も繰り返される顕現体験によって徐々に、ということでもあったでしょう。
ところが、そういう物語を収録したヨハネ福音書を読む人たちはだれも、衝撃のダブルパンチを経験していない。当然です。少なく見積もっても60年近い開きがあるそれは、遙か昔のことなのです。出来事を経験したことのないヨハネ福音書の読者たちはどのような反応を示したでしょうか。その一つの代表がトマスです。そして、トマスのような反応は、時代を経たからだけの理由ではなく、当然、あの時代を生きた人にも起こったと考えられます。主の顕現を経験できなかった人たち──何らかの事情でその時席を外していた人も、あるいは出来事から相当時間を経てしまって、今ではそれを歴史としてしか知りえない、例えばわたしたちのような立場の人にも──復活顕現に際して考えられるであろう反応を代表して、トマスは永遠に「疑い深いトマス」と言われ続ける。申し訳ないと思いますが、トマスはすなわちわたしなのです。
そのトマスに向かって、すなわちこのわたしに向かって、主は言われます。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」(ヨハネ20:29)。そしてこのイエスのことばが、ヨハネ福音書を締めくくる最後のことばなのです。つまり、わたしたちにも、その後永遠に続く時間を生きる人たちすべてにも、このことばは与えられているのです。その出来事を見ないでも、直接体験できなくても、それを信じる者は幸なのだ、と。それを可能にする「聖霊を受けなさい。」(20:22)と。
祈ります。
すべての者を愛し、お導きくださる神さま。わたしはわたしが見ようとすることしか見えません。最初から結論があってつじつまが合うことだけしか見ないのです。だから信じることも出来ません。この目で見て、あなたの釘跡に指を入れなければ信じられないのです。しかし神さま、信じない者をあなたは棄てておかれません。信じない者をも救おうとなさいます。そのあなたの熱情にわたしたちは打たれます。どうぞわたしを信じる者へと変えてください。そのために聖霊をわたしたちの上に満たしてください。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。